若葉の頃



仁星のシュウは音に聞こえた人格者であり、南斗に並び称される者なき好漢だったが、どこかが致命的に緩かった。どこがどうと断定するのは憚られるが、遠まわしに言うなら頭部周辺とサウザーは思う。無論シュウ本人が己の緩さに気付いているかどうかは疑わしい。
南斗の若き修行者達の武館である聖武殿を久しぶりに訪ったサウザーは、慌しく用意された椅子に腰を下ろすと、ぞんざいに脚を組み替えた。

「みな良く励んでいるだろう?」
「そんなことよりシュウよ、あれは一体何なのだ?」

頬杖も崩すことなく尊大に顎をしゃくるサウザーの横で、シュウは木漏れ日の如く平穏な微笑をたたえている。

「ユダか。あれは最近どうも洒落っ気が出てきてな、おおかた村の女に懸想でもしているのだろう」
「女に惚れると、男は唇に紅を塗り髪を結うのか?」

黙々と修練に励む若者のなかに、ひと際目を引く赤い髪と紫色のグロッシーな唇を見咎めたサウザーは、横柄に皮肉を飛ばした。
次代の妖星を冠するに最も相応しいと目されているユダ少年だが、果たして以前はあれほど奇天烈で面妖な化粧を施しなどする若者ではなかった。女のように丹念に編み込まれた頭髪も奇異である。

「はは。相変わらず目聡いな。話によると、あれでなかなかに似合っているそうなのだが」

あまりに暢気なもの言いに、貴様の目は節穴か、とサウザーは突っ込みそうになる。
シュウが両目の光を失いもう何年かたつが、五感と六感に優れた仁星は、視覚というハンデを別の感覚を磨き上げ研ぎ澄ますことで見事に補ってしまった。補って有り余るほどだ。サウザーはシュウが盲いた顛末を、無論つぶさに目にしているのだが、それでも時々「貴様本当に見えとらんのか」と疑いたくなるほど、克服に至る過程は早かったのである。視覚を失ってのち、シュウは今まで以上に後進の指導に熱を入れるようになり、今日のようにサウザーが気まぐれに尋ねて来ない限りは、南斗の若き修行者たちと共に汗を流す有意義な日々を送っている。

「何を言っている。そんな日和見な有様ではなかろう」

目の玉をかっぽじってよく見ろと言いたいが、さしものサウザーも温厚で知られた友人にそこまでの無体は要求できず、仕方なしユダの行動を忌々しげに眺めるに至る。
ユダは鏡に映る己の姿にまさしくうっとりといった体なのだが、時折我に帰ったように「うう!」と両手で頭を抱え込んだり「はあ!」と髪を振り乱して天を見仰いだり「ひゃあはは!」となにやら嬉しげな奇声を発したり(何がおかしいというのか)どうにも忙しない。その合間にちらちらと、道場の入口や窓の外に視線を送っている。

「ああ、今日はレイがいないのだな」

何を気にしているのかとサウザーが問う前に、シュウが微笑ましげに口を開いた。

「ユダはレイが道場に姿を見せないと、最近あのように妙にそわそわするのだ。そうかと思うとレイが現れるや柱に隠れて口紅を丹念に塗り直したりしてな。まったくひょうきんな男だ」
「…ユダがあのような化粧を始めたのはいつからだ?」
「うむ。レイがこの武館で試技を披露した翌日からだな。ユダは武具を取り落とすほどに見入って、その後レイと目があうや錯乱して逃げ出したそうだ」

ユダ殿がどうかしてしまったと皆心配していたぞ、はっはっはと顎をさすりながら笑うシュウにはもう目もくれず、サウザーは得心がいった様子で唇をへの字に歪めた。他の若者たちがユダを微妙に遠巻きに扱っている理由も読めた気はするが、込み入った事情をわざわざシュウに教えてやることもないだろう。先日愛妻との間に息子シバを授かったばかりでもある。仁星の心配事を増やすのは南斗聖拳の未来を慮っても得策ではない。
黙り込むサウザーの横で、シュウは若者たちに溌剌と檄を飛ばしていたが、ふいに声を潜め「来たか」と呟く。なんだ噂のレイが来たかと、面白くもなく顔を上げたサウザーの前に立っていたのはしかしシンであった。
殉星の後継者としての期待を幼い頃より一身に浴びるシン少年は、若々しいおもてを蒼白に震わせ、シュウの眼前でぐっと拳を握り締めた。

「ユリアにふられた!!」

血を吐くような、それは魂の叫びであった。なんの話だ、と問い返す以前に激情にあてられ絶句するサウザーを他所に、シュウは微かに眉を寄せ優しく「そうか」と返答する。
シンはぶるぶると拳を震わせながら、泣き出さんばかりの激昂ぶりでシュウに言い募る。

「シュウよ!貴様の助言通り、正直に思いのたけを伝えたのだ!だがユリアは…このシンのことは愛せんと言った!」
「うむ。おそらく、すでに想い人がおったのだろう」
「この俺が…どこの馬の骨とも知れぬ輩に負けたと言うのか!!」

カッと喝破するシンの迫力の凄まじさに、他の若者達は震え上がって固唾を呑む。一瞬の自失から戻ったサウザーは、つきあいきれぬといった様子で椅子に深く身を沈めた。

「…ご苦労なことだなシュウよ、ガキの色恋沙汰の面倒まで見ねばならんのか」

ユダの心の機微すら読めぬ朴念仁が、よりによって恋の助言などするなと実のところ言いたいが、派手な目鼻立ちとは裏腹に根は純朴なシンのこと、妻帯者であるシュウにまっとうなアドバイスを求めてのことだったのだろう。またシュウもこの通り朴訥な人柄であるため、大真面目に「当たって砕けよ」とでも言ったのかもしれない。
しかし少女ユリアに若き純真を突っぱねられたシンの悲嘆はやる方無い様子であり、このままシュウに飛びかかってもおかしくない形相である。逆恨みするなガキが、と口中でひとりごちるサウザーをよそに、シュウはさすがに南斗きっての好漢といった風情で穏やかにシンを諭し始めた。

「シン。気持ちはわかるが、女は南斗にユリア一人ではないのだぞ。お前は強いうえに男前なのだし、心奪われる女はこれからいくらでも…」
「俺にとって女はユリアだけだーーッ!!」

馬鹿か、とサウザーが冷ややかに突っ込みを入れる間もなく、仲裁に入った数名の若者を目を見張る電光石火の手刀で薙ぎ倒したシンは、そのまま聖武殿を全力疾走で駆け出て行った。もともと南斗の修行場へは殆ど寄り付かなかったシンだが、この日を堺に道場へは全く姿を見せなくなる。のちユリアを追って北斗の村に入り浸るようになりケンシロウとは敵対関係に陥るのだが、それはまた別の話として置いておく。

「シンは頑固だな。なに、若いうちはこれくらい極端なほうが、男として将来ものなるというもの」

南斗聖拳は残虐非道の必殺拳として恐れられている。その頂点を極めし次代の六聖を担う妖星に殉星、むしろ仁星のこのあからさまな緩みようは果たして大丈夫なのかと、サウザーは帝星として南斗聖拳の行く末を危ぶんだが、表立っては「俺はもう帰る」といらえるに留めた。

「なんだサウザー、もう帰るのか。ささやかな酒の席も用意させているのだぞ。一日くらいゆっくりしていけ。まだこれからレイが」
「いいから黙って帰らせろ。俺は疲れた」

シュウの言葉を強引に遮り立ち上がったサウザーだが、秀でた額には実際疲労を色濃く滲ませている。何か言いたげであったシュウだが、気難しい友人に重ねてものを要求する男では無かったので、では送ろうとあっさり立ち上がる。
サウザーと並んで歩きながら、シュウは南斗の若者たちの有望なことをいささか自慢げに、けれど嫌味なく爽やかに語り続けた。なかでもレイは若輩ながら真の情を知る男であり、義星を継ぐに相応しい器だと熱弁をふるう。

「おお、噂をすれば」

気配で察したらしいシュウが手を振ると、サウザーの記憶よりも背丈の伸びたレイが足取りも軽やかに駆けてきた。

「ほう。でかくなったな小僧」
「なんだサウザー。いま帰りか」
「なんだとはなんだ。即刻ここで死ぬか貴様」
「はは。子供相手に物騒な冗談はやめておけ」

大人気なく鳳凰拳を抜きかけたサウザーであったが、シュウにほのぼのといなされごっそり毒気を抜かれてしまう。命拾いしたレイ少年はというと、もうサウザーになど構っておれぬといった様子で、懐からどう見ても女物の色柄のショールを掴み出すと、頭部に素早く巻きつけてしまった。しかも女巻きである。どうしたことかと事態を把握しかねているサウザーを他所に、シュウはやれやれといった風情で微笑んだ。

「なんだレイ、またのぞきか」
「フッ。ちょっと女装すりゃ、女風呂も入り放題の見放題。乳の大盤振る舞いよ」
「見かけぬ美女が湯殿に出没するようになったと、衛兵達の間で話題になっている。ほどほどにしておけよ」
「男どものことなんぞ知るか。女どもはあれで、案外喜んでいるのだ」

あながち誇張でもなく、南斗の女官たちはレイが異性に化けて風呂に入り込んでも、いやーんレイのスケベ、もうバカ〜ンなどと湯をぶっかけたり手桶を投げ付けつつも、存外満更でもない様子であった。なおレイからこの話を聞いたジュウザ少年は「ならば俺も」と白昼堂々と女風呂の天井をぶち破り湯船にダイブするという武勇伝を打ちたて、軍師リハクをして「二人とも腕はたつのに…」とたいそう嘆かせている。

「リハクの小言は南斗一長い。軍師親子には捕まらぬようにしておけよ」
「フッ、シュウよ。俺は女の乳のためなら、リハクの説教をも厭わん男だ」

既に口を挟む気力も失せたサウザーは、暮れ行く夕陽を遠い眼差しで見つめていた。
こうしてはおれん、と華麗に身を翻すレイの後姿にのんびり手を振るシュウに「お前も手ぐらい振ってやれ」と促され、適当に右手を振ってみせる。いつもと変わらず温厚な笑顔で手を振るシュウの傍らで、何故か魂の抜けたような表情で機械的に手を左右に振っているサウザーの姿を見咎めた南斗の村人達は「サウザー様はどうかなされたのか?」と怪訝な面持ちで見守っていた。

翌日、この時のサウザーの様子を案じた村人たちの相談を受けたシュウは、

「サウザーはああ見えて、案外ゆるいところがあるのだ。ここのあたりがな」

とこめかみで人差し指を軽く一度回し、男らしく朗らかに微笑んだのだった。











2006.7.22