酔漢と、酔狂

帰り着くや、頼みがあるとレイが言う。何だと問えば、情けないほどの小声で「吐きたいのだ」と答える。
「好きに吐いてこい」とケンシロウが素っ気無く、今しがたレイが自分で閉めたばかりのヒバ材の扉を指差すと、南斗の使い手は血色の失せた唇を小刻みに震わせた。頼みごとを躊躇う心理状態にあるわけでなく、一言を発するのに、相当な努力と忍耐を要する身体状況にあるようだ。

「…だから、外で吐くために、その戸をもう一度開けてくれ、と言っているのだケン!」

乱調の千鳥足ですら、典雅な水鳥を想起させる義星の男独特の身のこなしは、大方の感心を誘うに十分な美しさを未だ損なってはいない。かろうじて。しかし、あと数歩を堪えるべく、吐き気に抗う彼の顔面は、のっぴきならない様相を呈していた。バットは未だ寝床で高いびきだが、今のレイの顔を見たら、大丈夫かと気遣う言葉より先に、素朴な笑いが出ただろう。

ケンシロウが無言で開け放った扉の外へと、右へ左へ行きつ戻りつしながら自力で辿り着くや、レイはがっくりと地面に両手と両膝をつき、おうええぇぇぇ…と内臓を搾るように嘔吐した。ケンシロウは扉に背を預けたまま、首を軽く動かし吐瀉物を検分する。水分量から推測されるアルコール濃度、それらを胃袋に流し込むのに費やされた時間、未消化のまま混在する肴の粗末な様、ざっと見たところでも、褒められた酒とは到底言い難い。胃の内容物を三度に分けて体外へ排出したレイは、肩を大きく上下させ、さらに乾嘔を催している。胃液の他に吐き出すものが何も無くなり、それでようやく落ち着きを取り戻したが、呼気は心許ないほど細く忙しなく、長々と震えている。

「……説教なら勘弁だぜ、ケン」
「説教をしたことはない。相手がそうと思い込んだことはあるかもしれんが」

項垂れるように地面に四肢をついた南斗屈指の使い手は、自らの上腕の重みを持て余したように、屈強な肩口から厄介そうに路上へ身を横たえた。こけた頬には幾分血の気が戻ったが、憔悴した目元に滲む涙は、不本意ながら隠しようもない。

「貴様のそういう言い草が、大概むかつくのだ」
「それはたまに言われるな」

そっけないが、悪意を含んでのことではない。ケンシロウのこうした物言いは、それゆえ時に鬱陶しいほど腹立たしい。それ以上に腹立たしいのは、別段旨いとも思わぬ安酒を無駄に独りかっくらい、絡んできた商売女と上機嫌で宿にしけこむようなこともせず、ましてマミヤの部屋に酒瓶片手に転がり込む、などというささやかな無体も起こさず、真っ直ぐに自分とケンとバットに宛がわれた簡素な家屋に戻ってきた自分である。このうえ、この北斗の仏頂面に介抱を受けるような醜態だけは晒したくはない、とレイは思うのだが、格好を取り繕うだけの手間隙など、深酒に体力を根こそぎ奪われた今の自分に残っていないことが輪をかけて腹立たしい。
北斗神拳の伝承者は、空気のようにその身に染み付いた根気の良さを、ことさら隠そうとも、また誇示しようともせず、南斗の男の次の言葉を待っている。こういう時に先に口を開くのは自分の役目であり、そうしなければ埒が明かないことが経験上わかっているため、レイはため息雑じりに細く呟いた。

「……くだらん酒だと思っているな」
「いや」
「俺をとるに足りない、世話のやける男と思っているのだろう」
「そんなことはない」
「…惚れた女は見向きもしない。あろうことか、貴様なぞに夢中だ。俺は負け犬だ」
「思っていない」
「……こんな、ゲロと涙と鼻水まみれで…、二枚目が形無しだぜ…」
「別に普段と大差ない」

おい最後のは無礼じゃないのか、と常ならば雑ぜ返して皮肉に笑うところだが、レイは機嫌を損ねた子供のように唇をひん曲げて押し黙り、北斗の男に虚しい言葉で絡む行為を自ら打ち切った。震える両手で顔面を深く覆い、大きく嘆息する。そこで、また弱々しい呟きが口をついて出た。

「……こんなものは俺ではない」
「ああ」
「ただ、…そうだ、少しばかり酔っているのだ」
「そのようだ」
「酒が入ると、俺はどうも、…悲観的になるらしい」
「そうらしい」
「…根が真面目なせいだ。俺のような男は、日頃からもっと、…羽目を外すほうが良いのだ」
「別段そうは思わんが」

最後だけ肯定しないのはおかしいだろう、といつものように軽口を叩く気力が無いのである。口を開けば、恨みごとのような自己嫌悪が自然と漏れ出る有様に、レイは押し黙るほかない。ケンシロウは嫌な顔もせず、かといって楽しそうな顔を見せるでもなく、淡々と南斗の酔漢につきあっている。北斗神拳の伝承者にそのようにあしらわれる自分が、仮にも南斗聖拳を極めた六聖の一人とは。あまりに惨めと思えた。
それならせいぜい、みっともない酔いを曝け出してやると、レイは駄々をこねるように顔を地面に擦り付けた。恥の上塗りというやつだ。自棄的な負の感情をこもごも募らせ、湿った唇の外へ押し出せば、わけのわからない唸り声となる。南斗の男の子供じみた悪態は、一つの言葉も成さなかったのだが、立ち会った北斗には、伝わるところがあったらしい。ケンシロウは短く嘆息し、組んでいた腕を解いて扉から背を浮かせた。

「…レイよ。朝からおかしな酒で絡んでくれるな。貴様らしくない」
「今の俺が俺らしくないなど、貴様に決め付ける権利があるのか」
「お前は優れた使い手だし、気持ちのよい男だ。マミヤがお前になびかんのは、個人の趣味の問題だ」
「言うにことかいて…!このうえ俺が、女のせいで深酒をしたと決め付ける気かケン!」

そうである。だが、そう至るだけの顛末も、無論あったのだ。




宵の口、上機嫌でマミヤの姿を探していると、丁度水浴を終えたところなのか、妹のアイリと二人、濡れた髪を布で挟むように丁寧に拭きながら、木陰で涼んでいるところであった。足音を消して二人の背後から近づいたレイの耳に、愛しの女戦士が「なんだかお尻が凝っちゃったわよ」とひとりごちる程度にはくだけた口調で、ハッキリこう言うのが聞こえたのである。

「レイは全然、男って感じしないのよ。弟のコウに似てるし」

彼女の隣でアイリが、何か言いたそうで、しかしちょっと言い出せない、といった微妙な風情で遠く夕日を眺めていた。
十分に陽が暮れ外気が冷え込むまで、その場で固まってしまったレイである。ぼんやりと夜空に北斗七星を探したが、死を兆す赤い星は瞬いてはいなかった。惚れた女に男と思われていないどころか、弟の範疇に分類されていた事実を、偶然といえ本人の口から聞いたことは、死刑宣告に等しかったのだが。
目的も定まらぬまま村を後にし、治安の悪い荒地をフラフラと歩いていたところ、食料をよこせと絡んできたザコ12名を、水鳥拳でなく鉄拳と足蹴で念入りにボコボコに叩きのめした。そのまま歓楽街へ繰り出し、深酒に慰めを求めたレイである。




思い出すほどに顛末が情けなく、義星の男はいっそ今、潔く死にたいとすら思った。
レイは普段から適当に酒を嗜むが、ケンシロウが自分と肩を並べて飲む姿は殆ど見たことが無い。この無口な男から、昔語りを引き出そうとしつこく酒を勧めた時には、慣れた手つきに愛着を滲ませ酒瓶を弄っていたので、酒を好まぬ訳では決してないのだ。ただ事が起こった際に、用心棒の片割れであるレイが酔い潰れるような事態にあっても、自分は素面であることを実直に課している様子なのである。そのことにはレイも、以前より気付いている。まとまった武力を持たない村人たちが、すがるような眼差しで自分たちに求めている役割を、この北斗の伝承者は黙々とこなしているのだ。優先順位を置いたものを、淡々と守っているこの寡黙な男は、疑いなく自分よりも器量が上であるように思われる。マミヤの何気ない一言が決定打となり、かねてよりケンシロウに対して抱いていたそうした劣等感が、ここにきて噴出した思いだ。はっきりと自覚が兆せば、追い討ちをかけるように、全身がさらに重く打ちのめされた。レイにはもう、一言を発する気力も無い。

「貴様の酒は、どうも性質が悪いらしい」

ケンシロウは軽く肩を竦め、戸口から離れる。駄々をこねるように耳の両脇で拳を握り締め、うつ伏せに倒れているレイの真横に座り込み、よっこらしょといった按配でそのまま地面へ寝転んだ。気配を察し、何事かと気だるく視線を動かしたレイは、凍りついて絶句した。ケンシロウは、額からつま先までべったりと地面につけ、棒のように垂直な姿勢を保持したまま横たわっている。土下座ならぬ土下寝といった風情で自分の隣に転がっている北斗の男の全身を奇異の眼差しで上へ下へと何度も見直し、これが深酒のもたらす幻覚でも錯覚でもないと確認したレイは、ぼんやりと問いただした。

「……貴様、何をやっているのだ」
「気にするな。つきあいだ」

地面に唇をべたりと密着させているケンシロウの返答は、もごもごとくぐもり、聞き取り辛いこと甚だしい。そんなことよりも、どんなつきあいで、彼は自分の横で馬鹿のように手足を真っ直ぐに伸ばしたまま寝ているのか、その理由を知りたい。北斗の突飛な行動に混乱をきたし、瞬きも忘れて彼を凝視していたレイの耳に、その時少女の懸命な叫びが聞こえてきた。

「ケーン!どうしたの、ケン!!」

朝一番に支給される食料を、男たちの寝泊りする家屋まで運んで来たリンが、図体のでかい成人男子二名が肩を並べてうつ伏せに倒れ伏している、この異様な光景を目の当たりにしたらしい。抱えていた食料を几帳面に地面の端に置いてから、一目散に走ってくる気配があった。続けて、うるせぇなあ、朝っぱらから何の騒ぎだよと戸口から寝惚けた声で顔を覗かせたバットが、目をむいて絶句する。

「…おいおい、何だってこんなとこで、そんな寝方してんだよ…」
「ケン…!おきてケン!」

体調も精神状態も確かに最悪だったが、それ以上にこの成り行きに対応するのが億劫で、レイは寝たふりを決め込むことにした。薄目を開け、傍らに寝ている男の次の行動を盗み見る。リンは大慌てでケンシロウへと飛びつき、その野太い腕を何とか持ち上げようと試みている。
彼はぐったりと全身の力を抜いているため、子供の細腕では無論びくともしない。丸太のような北斗の男の右腕を両手で持ち上げようと必死になっているリンの華奢な膝が、重量に耐えかねプルプルと震えている。

「ケンの腕、お、おもい…!」
「てか酒クセェ!二人して酔っ払ってんのか!?勘弁してくれよ〜俺たちで、どうやって部屋に運びゃあいいんだよォ…!」

子供たちの困り果てた様子をさすがに見かね、レイは(貴様、いいかげんにしろよ…!!)と心の中で強く訴えた。しかし北斗の巨漢はピクリとも動かない。山のフドウの如しである。レイは子供らに「人を助けるような目じゃない」「ありゃ大悪党のツラ」と評されたこともある険悪な横目に、それなりの怒気を漲らせて睨み付けたが、無論その程度で怯む北斗ではない。どういう嫌がらせかと問いつめるのは後に回すことに決め、レイは甚だ不本意ながら腕を重く折り曲げ、上体をのそりと起こした。

「あっ、レイが起きたぜ!」
「レイ…!よかった…。ケンが、ケンが起きないの」
「…心配するなリン。奴なら、酒の飲みすぎで潰れただけだ」

面を上げたレイと目があうや、バットは頬を膨らませ素朴に噴出した。
もとは端正である筈のレイの顔面は、溢れ出したり吐き出されたりした諸々の水分で汚れており、土埃が付着している。不機嫌もあらわなへの字口と、二割増し濃くなった隈を目の下にべったりと貼り付けたレイの顔は、少年にとって無条件で笑うしかない様相を呈していた。腹を抱えて軽く酸欠状態に陥っているバットを睨み付けると、こちらは効果があったらしい。少年は慌てて飲み込むように笑いを喉元に引っ込め、わざとらしく咳き込むと、明るく場を取り繕った。

「…ま、そんなこったろうと思ったぜ!でも珍しいよな、二人一緒に飲みに行くなんてよォ、でも何でこんなとこで寝…」
「バットよ、深く追求しないほうがいい。これは、北斗神拳正統伝承者の名誉にかかわることだ」

リンに寝床の用意を、バットに水の調達を命じることで、レイは己の名誉にかかわる事態への深い追求をひとまず回避した。
このままでは埒が明かないことは再三学習済みであるので、横たわっているケンシロウを、仕方なし「ふんぬ!」となけなしの気合を込めて抱き起こし、肩におぶって屋内へと歩き出す。ケンシロウの体温が極端に高く感じられるのは、こちらの体温が低下しているせいだ。ますますよくない。数時間は横にならねば、回復は見込めないだろう。しかし、これほどの悪酔いで足元もおぼつかない自分がなぜ、身に付いた早朝の鍛錬で血色もツヤツヤと良いこの狸寝入りの大男を担いで歩かねばならぬのか。あまりの不条理に即刻倒れ伏したくなる。だいたい子供らときたら、毎回毎回ケンシロウの心配ばかりで、レイのことなど、あきらかに二の次なのである。自分の悲惨な顔を見て思わず笑ってしまったバットなど、まだ罪が無いかもしれない。リンは一瞬だけレイの顔を見たが、何事もなかったように、直ぐに視線も意識もケンシロウ一人に戻してしまった。
しかし、レイの言葉に素直に安堵し駆け出していく子供らを見れば、不可解な北斗の酔狂をこのまま放り出すわけにもいかない。水鳥拳を抜けばさすがに相手も応じるだろうが、そうまでしたら「酔っ払い相手に大人気ない」と自分のほうが後々マミヤにまで白い目で詰られる気がする。酔っ払いは自分だというのに。狐につままれた気分である。
ご丁寧にも爪の先までだらーんと脱力しきったケンシロウの首を左腕で締め上げるようにして、彼の全体重をずるずると引きずりながら、レイは憎々しげに呟いた。

「…おい、何を考えてるかは知らんが、貴様少しは協力しろ。重くてかなわん」
「レイよ」
「なんだ」
「俺は、」
「手短に言え。俺は今最高に機嫌が悪い」
「…俺は、生まれた時から暗殺者だった。そうお前にも話した」
「ああ、聞いたな」
「だが、お前といいシンといい、南斗というのはどうも、星に相応しい器量があってその座に選ばれたというより、だんだんと、自分に与えられた星の役割に、自ら近づいていくように思える」

レイの右肩にぶら下がっていたケンシロウの右手が、微妙な力加減に親しみを込めた様子で、レイの上腕をぽんと叩く。
義星の男は、虚を衝かれたように視線を僅かに上げたが、直ぐに舌打ちをして俯き、忌々しく呟いた。

「…おせっかいめ」

罵りの言葉と裏腹に、レイの声は何かをいたわるように穏やかである。
相変わらず全体重を預けたままのケンシロウを無言で抱えなおすと、寝室から心配そうに顔を覗かせているリンに、レイはそれとわからぬほど微かな苦笑を向けた。

北斗の酔狂を前に、南斗の男の最悪の酔いは抜けたらしかった。











2008.8.26
「酔っ払ったレイを介抱するケン」というリクエストにお応えして