義星の妹



蹄は何処か。どうとどうと寄せは鳴る。夢の戸を波だてる黒き王の嘶きよ。
瞼をおこせば星の窓は夜明けにある。現に扉を開くは、かの手綱の導き手であった。

「…ああケン、黒王号の蹄鉄の音を、いま夢に聴いていました」
「我らは夢の野は駆らぬ。お前に別れを告げに来たのだ、アイリよ」

北斗神拳伝承者は、長兄たる世紀末覇者より譲り受けた愛馬の名に同じ黒衣に長身を包んでいる。哀しみを遥かとたたえる彼の双眸を労るが如く、アイリは細きかいなをまっすぐに伸べ、寝台より身を起こした。

「別れとは、どちらに赴かれます」
「修羅へ」

ケンシロウは何時もことの多くを語らぬのが良いのだと、かつて彼と道行を共にした兄は笑ったものだ。

「修羅の国へ?」

あるいは道を、と問いかけて噤む。彼にはどちらとて同じこと。
南斗六星ことごとく地に散り、最後の将たる慈母星も天に帰った。ケンシロウにとっては睦み合う唯一の女性であったユリアの在りし日の微笑に、アイリは淡く想いを馳せた。

「将亡き後、あなたの哀しみは増すばかりです、ケン。それがユリア様の望まれたことでしょうか。将は死の間際に、あなたに何と?」
「幸福で、夢のようだと笑った」
「そしてあなたは泣いたのでしょうか。誰の知ることもなく」

アイリの私室の扉の前に黙と立したまま、ケンシロウはその双肩からふと悲哀をほどいた。

「…義星の妹に隠し事はできぬ。お前の歯に着せぬ言いようはレイにそっくりだ」
「仁星はかつて少女の頃の私を、別の方にそっくりだと仰いました」
「シュウが?」

薄手のストールを羽織りながら、水鳥の如く端麗な脚運びで寝台から滑り降りたアイリに、ケンシロウは問う。盲目の闘将、シュウの怒りと哀しみもまた、この北斗の伝承者の中に生きている。

「かつて南斗の十人組手で、両目の光と引き換えに命を助けた北斗の幼き修行者がいる。私はその少年に似ていると」

常少なな言葉を今や封じてしまったケンシロウに、アイリは端然と微笑みを向ける。
シュウの両目と引き換えに永らえた北斗神拳伝承者は今、世紀末覇者の哀しみすらもその身に拾い受け、さらなる修羅へ赴くのだと告げる。

「俺とおまえが似ているだなど。リンやバットの耳に入れば噴飯ものだ。その眉のどこがと。レイとて機嫌を損ねよう」

おまえの怜悧な面差しはいかにも兄譲りだと、彼には珍しいことに半ば苦笑すらたたえ、ケンシロウはアイリの細い髪を指先で梳いた。

「シュウ様の目に私の見目かたちは映りません、ケン。それでも似ていると言われたのです」
「なればこそ、おまえに別れを告げに来たのだ。俺にとってお前は妹も同然」
「私にとっても、あなたはもう一人の兄です。妹を大事と思われますならば、どうか私の願うものをひとつ、この地に置き行かれませ」

瞳を逸らさず凛と告げるアイリに、救世主はひとつの首肯きと共にいらえた。

「我が妹よ。お前が望む全てを、この地に置き去ろう」
「では心を」

屈強な筋肉に鎧われたケンシロウの胸に、己が右の拳を押し当て、アイリは清廉なおもてを決然と上げた。

「その心の傷を、私のもとに置き行かれませ。誰拾うこと無き痛みならば、この私が拾いましょう」

まどいも濁りも、塵ほども見えぬ。この眼差しの強さを、ケンシロウは知っていた。かつて義を宿星と抱いたその男もまた、彼のうちに生きている。

「…義星は正統な後継者を得た。レイと同じ光輝が、今はお前の頭上に廻って見える」

穏やかに微笑むケンシロウの肩に縋るよう腕をのべ、アイリはさらに言い募った。

「兄はいつも私にこう言いました。ケンは哀しみのうちに捨てられた人の心を、暗い水底から両手ですくうように拾い上げ、拾い上げ拾い上げ、また拾い上げ、そして自分は去って行くのだと。ならばケン、無数の傷を拾いうけたあなたの心を、誰が一体拾いましょう」
「俺は心を捨てはせぬ。拾い手も要らぬ」
「その強さを哀しく思います。私には兄のような峻烈な拳も、シュウ様のように深遠な思慮もありません。それでもお役に立ちたいのです。ケンのために、私は何ができましょう?義の血をひく者として、妹として、力になれることは無いのでしょうか」

艶やかな若い頬にはらと滑り落ちる涙を親指で拭ったのち、ケンシロウは彼女の華奢な肩を掌で数度撫ぜた。

「レイとて俺の心は拾えぬ。だがアイリよ、お前にしか成し得ぬことがひとつだけある」

溢れ出る涙を恥じるも忘れ、しがみ付くよう眼差しを上げたアイリに、北斗神拳正統伝承者は告げた。

「幸せになるがいい。子を生し、やがてその子に心を伝えよ。それだけを望み、それだけを願う」

レイはその死の間際、微笑みながら言った。

「男は死ぬ。だが女は語り継ぐ。男の、闘いの物語を」

アイリはケンシロウの前に恭しく両膝を折ると、白い腕を胸の前で交叉した。

「ならば語り継ぎましょう。あなたの哀しみと、その傷跡に刻まれた強敵(とも)の名を」
「それで良い。肉体が野に朽ちてなお、我らが心はおまえの言の葉に存えよう」
「はい」

はい、ケンシロウと何度も肯きながら、アイリはついにこらえきれず嗚咽を洩らした。春を告げる白木蓮と称えられるそのかんばせを両手で被い、身を震わせる。

「おまえの幸福を、何処にあっても願っている。レイとともに」

今生の別れとなろうその言葉を聞きながら、アイリは硬い床上に頽れ泣き伏した。
枯れ尽きるまで泣いてのち、いつか差し込む陽光のやわらかさに瞼を上げる。
朝を待たず、世の救い主は消えていた。


蹄は何処で聞いたのか。この地にあってはもう二度と、夢まぼろしは耳にすまい。心の拾い手は、全ての傷を傷として負い去ったのだ。ならば自分とて。
寄さば鳴る海に、瞑目する星に、光降らす天に、万の死を拭う大地に、その心を伝えよう。
人の現にある限り、幸福を継ぎ繋ぐ星を担った女として。
哀しみを綺羅と鎧う、ひとつの深い愛の名を。


ケン。







2006.4

多分に説明不足ですが、原作へのロマンをちょこっとでも感じていただければ幸いです。