花と少女

花の名は知らぬが、白い花弁を優しくまとった佇まいは、少女そのもののようだと思う。

「目を覚ましても、ケンには内緒にしておいて」

丸みのある下唇に人差し指を押し当て微笑むユリアの眼は、青年にとって与り知らぬまじないのように不可思議だ。滑らかな足捌きは手毬を転がすように優美であり、年齢のまま稚くもある。斜面を駆け下りて行く少女の小さな背を見送り、トキは穏やかに口元を綻ばせた。隣で、末弟の頭部がにわかに大きく傾ぐ。

「………すまぬ。どうも眠っていたようだ」
「胃袋が満たされた後でこの陽気だ。無理もないが、この場にいるのが私で良かったな」

ラオウであれば、年長者と組んでの座行の最中、大胆にも夢の海原へと舟を漕ぎ始めた少年を見るや、首を片手で締め上げ、そのまま崖下へ叩き落そうとしたやもしれぬ。ジャギならば難癖を幾つも付け加えた挙句、少年の顔面を踏みつけたことだろう。

「トキのおかげで、俺は何度命拾いをしたか知れぬ」
「そうだな。私がせっせと命を拾い集めているがゆえ、お前の安眠は保たれているのだ」

弟のささやかな居眠りを守るのは苦であるどころか、トキにとって楽しみのひとつである。陽光に誘われての午睡より目覚めた北斗の末弟、ケンシロウは、自分に対する心配りと人間味にあふれた次兄の冗談を受け、首を揺すりながら両肩を後ろへ一度回した。短く息を吐き、太股の上に乗せていた左右の足を組み直す。

「…悪かった。もう眠らぬ」
「多少でも恩に感じているのなら、次に村へ下りた際に、書物のひとつでも調達してきてくれ」

唇を固く引き結び口角を下げ、うむ。としゃちほこばって肯く末弟の所作は、ユリアとそう違わぬ年の頃の少年にはいかにも不似合いである。ついでに彼の左耳のすぐ脇、癖の強い黒髪の上には、先ほどユリアが悪戯に挿して去って行った白い花が、可憐なありさまで風に揺れている。少女に約束しているので、それと末弟に知らせることはできない。未だ眠気と格闘を繰り広げているケンシロウの神妙な顔つきと、愛らしい白い花弁はあまりにそぐわず、トキは堪えきれずに軽く俯いて肩を揺らした。

「笑ったな、トキ。いや、俺が目を覚ます前から笑っていた」

少女と交わした一時のあたたかな交流と、心を浸す慕わしさを見抜かれたようで、トキは思わず面を上げた。子供らしく、ここで前歯を見せて笑い返しでもすれば可愛げがあるものを、存外聡いこの末弟ときたら、瞼を動かそうともしない。生真面目な表情を浮かべたまま目を閉じ、風に身を晒している。
事実に近いところを言い当てる少年の鋭さに内心舌を巻くが、次兄もそこでことさらに顔色を変える器ではないので、笑みを絶やさぬまま目を瞑り、自分も座行へと戻る。ケンシロウもそれ以上会話を繋ごうとはしない。

仲良く並んで脚を組み座している兄弟はしかし、退屈との闘いと言ってもよい座行へすすんで戻ったわけではないのだ。
頬を掠める風を受けケンシロウが「花は咲いていなかったはずなのに、俺の近くで花の匂いがする」と抑揚なく呟く。彼の耳の脇で、罪も無くそよそよと風に吹かれている白い花を思い浮かべ、トキはついに吹きだした。

「なんだトキ。今の何がツボだったのだ」
「…言えぬ。言えぬが、どうもはまってしまったようだ」

うららかな午後の日差しの他は何も無い野原に、質の良いやわらかな声を響かせ笑い出すトキを、ケンシロウはやはり深く追求しようとはしない。髪に生花を挿したまま、座行を続けている。
年に似合わぬ仏頂面を厚く貼り付けてはいるものの、後で水面に映った己の顔を見て、この末弟もユリアの愛らしい悪戯に、苦笑のひとつくらいは洩らすに違いない。日々の過酷な修行の合間に花一輪で、このように心和ませてくれるあのような少女こそ、噂に聞く次代の南斗の「慈母の星」を冠するに相応しいのかもしれない。
愛想も無いが、感情を偽ることも無い、この末弟の意見もこの際聞いてみたくなり、トキは少年に話題をふることにした。

「ユリアという、あの南斗の血筋の少女だが。お前はどう思っている?」
「優しい。芯が強く、話していると心があたたまる」

どうとは?いや、お前があの子に対して抱いている印象を知りたいのだケンシロウ、などといったやり取りを自然に省いてくる末弟の率直さがトキは好きだった。いささかの躊躇いも見せず、彼が返した言葉にも同意である。あと3年もすれば、少女は花にも喩えようも無く美しく成長するに違いない。美しく誇り高かった母の姿をふと思い浮かべる。ユリアと母は、面差しがどこか似ていた。

「あの子は、よき母となるのだろうな」

年頃になったなら、あの少女がどのような相手を選ぶのかいささか気になる。いささかどころか、実のところかなり気になる。随分と機嫌が良いらしい自分自身にも、今日のトキは寛大だった。食欲のほどよく満たされた穏やかな午後に、最年少ながら、兄弟の中で最も人間的に信頼を寄せるに足る末弟と埒も無い会話を交わすことが、単純に楽しくもある。

「ああ。いい女になるだろう」

唐突に、艶かしくも聞こえる一言をてらいなく放った少年にぎょっとし、トキは真顔で末弟の横顔を見据えた。ケンシロウの頬は子供らしい丸みを十分に保持しており、質より量があきらかに足りていない上腕の筋肉など、若々しいというより見るだに幼い。声変わりとてまだなのだ。言葉の裏に深い意味が込められているとは考えにくい。しかし、弟は色恋にはまだ興味を示さぬ頃だと、今の今まで信じ込んでいた次兄の心中は穏やかではなかった。トキは十分に、女性をそれと意識する年齢に達してはいたが、意識することは意図的に避けている。自分はまだ、修行中の身なのである。色恋に寛容な一部の南斗の流派と違い、北斗は成年になっても厳しく己を律する。年長者として弟をたしなめたものかと、しばらく思案しつつ彼の横顔を見つめていたトキはだが、そのまま口を噤むことにした。明確な理由はトキ自身にも見出せなかったが、ユリアという少女について、これ以上ケンシロウと会話を続けることが憚られる思いがしたのだ。いや、そもそも自分やラオウと違い、ケンシロウには思慕を寄せるべき母の面影自体が無かったではないか、と今更ながら思い至る。
末弟には、母親の概念が欠落しているのかもしれない。トキはそのように折り合いを付けることにした。

「そろそろ外していいだろうか。良い香りだが、さすがに甘ったるい」

自分の髪を飾る花を、ケンシロウは目を閉じたまま、正確に二本の指で取り去った。
いつから気付いていたのか。あるいは最初から知っていたのか。どうやら、末弟にしてやられたようだ。
トキは完璧な左右対称をなす微笑を口元にのぼらせると、今度こそ行に戻るべく表情と姿勢を正す。

この世の慈母たる役割を運命付けられた女は、その役割を求めぬ男をこそ、あるいは自ら選ぶのかもしれない。最後にふと思った。









2008.6.29
「北斗の次兄@青年期と末弟@幼少期のペア」というリクエストにお応えして